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フランス植民地時代から1975年のベトナム戦争終結まで、「流刑地」として恐れられていた歴史を持つコンダオ。町のいたるところには、各収容所跡が今でも残されている。今ではジャングルやビーチが満喫できるこの地で、かつて何が行われたのか。自分の足でそれらを訪れてみれば、周りの空気との温度差を感じることだろう。 フランス植民地時代
フランス植民地時代、コンダオには「フーハイ/Phu Hai」(1862年)、「フーソン/Phu Son」(1916年)、「フート/Phu Tho」(1928年)、「フートゥーン/Phu Tuong」(1941年)の4つの収容所、拷問部屋「虎の檻」(1940年)、「牛舎/Chuong Bo」(1930年)などが作られた。この島に初めて収容されたのは50人、1862年3月のことだった。 ■フ−ハイ収容所 1896年に建てられたコンダオ最古かつ最大の収容所。当初は「コンホア(Cong Hoa)」という名称だったが、1974年11月以降はフーハイ収容所と呼ばれた。総面積1万2015uの敷地に、10の集団収容部屋、20の独房、砕石場などが作られた。ここにはベトナム本土から送られてきた犯罪者および共産主義者が収容され、医師の承諾を得た病人を除いた全員が全裸で足かせをはめられていた。各収容部屋には常時150〜180人が収容されていたという。 ■虎の檻 1941年に建てられたフートゥーン収容所(Trai Phu Tuong)を入った奥にある、通称「虎の檻」。1940年に作られて以来、1970年まで使用されたここは、拷問のための施設だ。3つの収容所に囲まれ外からは見えないため、1970年に入るまでその存在さえ知られていなかったという。全120室の収容部屋には足かせをはめられた6〜8人が収容され、檻のような格子がはいった天井から生石灰を水と混ぜたものがかけられた。これは、熱くなった石灰水が肌を焼くためだ。収容されていた男女は共産主義者だった。
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スケッチトラベルで行く! (2007年6月号 | 2007年6月22日 金曜日 10:52 JST更新) |
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