2024.12.02

【ベトナムの文化芸術を未来へつなぐ】グエン・ファン・チャン絵画保存修復プロジェクト・第4回

【ベトナムの文化芸術を未来へつなぐ】グエン・ファン・チャン絵画保存修復プロジェクト・第4回
『香炉の火煙/Nồi hương hóa』 
水彩、絹 │ 1938年 │ グエン家所蔵
©Nguyen Nguyet Tu

おだやかな日常への温かいまなざし
画家の心を次世代へと伝えるために

ベトナム近代美術画家の1人、グエン・ファン・チャン。その絵画の保存修復プロジェクトの主要メンバーの1人が、これまで世界中の名画を手掛けてきた絵画保存修復家の岩井希久子さんだ。単なる技術的な挑戦ではなく、画家の魂と向き合う極めて繊細で深いプロセスをやり通した根底には、「グエン・ファン・チャンの作品を未来に繋ぐ」という強い使命感がある。

『船を燻す/Hun thuyền』
水彩、絹 │ 1938年 │ グエン家所蔵
©Nguyen Nguyet Tu

絵画保存修復家
岩井希久子
国際文化財保存学会(IIC)フェロー。1980年に渡英し、国立海事博物館保存修復部門で研修。84年に帰国後、ゴッホ、モネ、ピカソなど世界の名画や山下清の貼り絵など幅広い名画を手がける一方、脱酸素密閉保存の研究、日本の職人の技術を生かした修復など、独自の技術を探求。本プロジェクトでは依頼された16点の作品すべての保存修復を手掛けた。
岩井さんが初めてベトナムを訪れたのは2009年。グエン・ファン・チャンの長女グエット・トゥ(Nguyệt Tú)さんを訪れ、数々の繊細な作品の状態がひどく損なわれていることに衝撃を受けた。

「グエット・トゥさんは、私の手を握りしめて、真剣な眼差しで『日本の技術で父の絵を未来に残してほしい』とおっしゃいました。思わず『なんとかします』とお答えしたんです」

グエン・ファン・チャンの絹絵は、絵の具を塗っては洗い流すという作業を10回以上も繰り返し、まるで絹を染めるかのようにして描かれている。羽二重の繊細なシルクは虫食いやカビによる劣化が深刻で、絹自体が崩れ落ちそうな状態だったという。

「傷み方は半端ではなく、見た目以上に劣化が進んでいました。少しでもミスをすれば、二度と元に戻らない。だからこそ、いったん作業を始めると8時間、12時間も手が止められない場合がありますし、常に集中力を切らさないことが求められます」

岩井さんは、オリジナルの絵の上に新たな色を重ねたり、描き足したりすることは絶対にしてはいけないという鉄則を守る。それは、作家の意図を最大限に尊重するためだ。それを実現するための独自の手法も開発した。

「修復は目立ってはいけません。私たち保存修復家の役割は、あくまで黒子に徹し、オリジナルの美しさを蘇らせることです」

作品を修復する中で、岩井さんはその繊細な筆使いと色彩に強く惹かれていった。
「グエン・ファン・チャンの絵には、優しさと強さが同居しているんです。戦争の激しい状況下でも、人間らしさを失わないことへの強い意志が感じられる一方で、描かれた子どもたちや日常の風景には、温かい眼差しが注がれています」

絵画の保存修復は、技術的な挑戦だけではなく、画家との心の対話でもある。

「グエン・ファン・チャンがこの絵をどのような思いで描いたのかを常に考えながら、画家の思いに寄り添い作業を進めます。彼は、過酷な状況の中で、平和な日常の尊さを伝えようとしたのではないでしょうか」

だからこそ岩井さんは、どんなに時間がかかろうとも、絵の持つ意味を壊さないよう、慎重に作業を進めてきた。

「蘇ったオリジナルの作品を、多くのベトナムの方たちにも見ていただきたいです。作品は実際に目にしてもらってこそ価値を発揮できます。1人でも多く保存修復の必要性に賛同する人が増え、この世界に誇れる芸術家の作品を通して、ベトナムのすばらしさを再認識していただけると嬉しく思います」

絹絵画家
グエン・ファン・チャン(阮潘正)
Nguyễn Phan Chánh

1892年7月21日~1984年11月22日
ベトナム・ハーティン(Hà Tĩnh)省生まれ。ベトナム近代美術のパイオニアの1人で、近代絹絵の創始者。1925年ハノイに設立されたインドシナ美術学校の第1期生であり、西洋の造形技法と東洋の平面的な画法を組み合わせた「ベトナム近代絹絵」という全く新しい技法を開拓した。ベトナムの農村に生きる人々の日常をやさしい視点で見つめ、柔らかな色調で描く。

グエン・ファン・チャン絵画保存修復プロジェクト

グエン・ファン・チャンの長女グエット・トゥ氏より依頼を受け、傷みが進んでいた作品の修復・保存とデジタル化を実現させたプロジェクト。専門家たちと先進技術をもつ企業らが知恵と技術を結集し、16年をかけて16作品が修復・保存された。作品に込められた温かいまなざしを次の世代につなぐべく、引き続き修復・保存と情報発信を行っている。

公益財団法人 三谷文化芸術保護情報発信事業財団
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