2023.02.01

始まりは日本語学習から日越のアカデミックな関係

始まりは日本語学習から日越のアカデミックな関係
日本とベトナムが1973年に国交を正式に樹立してから2023年で50周年を迎える。両国が友好的な関係を発展させていく中で、日本語を学び、日本での経験を経て学問・研究の分野やビジネスにおいて日越のかかわりを強めていった人々がいる。4人の日本留学経験者に当時と今、そして将来について話をきいた。
目次

元ハノイ貿易大学日本語学部長
グエン・ティ・ビック・ハーさん
Ms. Nguyễn Thị Bích Hà

日本語との縁が人生を変えた 良質な日本語人材の教育を追求したい

1973年に日本語と出会い、40年以上にわたり日本語を教え続けているグエン・ティ・ビック・ハー先生は、日本語と日本国に対して、感謝の気持ちをもつ。日本語の勉強がきっかけで人生の転換点を迎え、良質な生活と有意義なキャリアを手にできたと語る。

1978年からハノイ貿易大学の日本語教師となり、東京女子大学で修士号、ハノイ国家大学人文社会科学大学で博士号(言語学)を取得。1997 ~ 2010年までハノイ貿易大学の日本語学部長を務める。2020年度に日本外務大臣表彰を受賞。現在は貿易大学の非常勤講師として日本語を教え続けている。

日越外交関係樹立の年に
日本との縁が始まった
戦争の影響が続く1970 ~ 1980年当時のベトナムでは、日本語を学ぶ機会
は非常に限られていた。1973年に日本語と出合ったハー先生は、そんな稀なチャンスを手にした1人だ。

「ベトナム共産党員だった父が、日本語の勉強を勧めてくれました。日本語ができれば絶対いい仕事に就けるし、より良い生活ができると思い、ハノイ貿易大学の日本語学科に応募しました。合格結果をいただいた私は飛び上がって喜びましたよ(笑)。 大学では日本人の先生に文法から発音まで、とても丁寧に教えていただきました」

1970年代、大学卒業者はベトナム共産党の指示で仕事が決まる。ハー先
生は1978年からハノイ貿易大学の日本語教師となった。

ドイモイ時代に日本留学
貴重な「財産」と共に帰国
ベトナム共産党は1986年に「刷新(ドイモイ)政策/Chính Sách Đổi Mới」を導入し、ベトナムは市場経済など国際社会への積極的な参入を進めた。1988年4月~9月、ハー先生は国際交流基金による研修への参加を経て、1991年から東京女子大学に留学。そこで日本の生活や文化に実際に触れた。

「日本へ来たばかりの時は、日本人の話すスピードについていけなくて、いつも首を傾げて聞き耳を立てていましたね(笑)。ベトナムでは語学を通じて日本のことを学んでいましたが、実際に日本の文化や生活などを体験する機会はありませんでした。例えば、納豆は『田舎の鶏のような味』と教わっていましたが、実際のところは知りませんでした。それで納豆や刺身など食べ慣れていない料理でも、鼻を覆って味見して(笑)、帰国したら生徒たちにその味について話しました。

当時の日本での快適な生活を体験して、私はずっと日本に住みたかったですね。就労試験に参加したベトナムや中国などの共産主義国の私たちは、就労試験に合格したら、すぐ帰国しなくてはなりませんでしたが、2つの『財産』を持ち帰りました。1つ目は能動的学修など日本語を教える方法、2つ目は日本の生活、文化などを身を持って体験し、体に染み込んだことです」

日本と関わる多くの仕事で
生活とキャリアが上向きに
「ベトナムと日本の関係を一言で表すとすれば、『ありがたい』です。1990年代にはヴォー・ヴァン・キエット(Võ Văn Kiệt)首相などの多くの政治家の通訳をしていました。仕事を通して家族の生活が良くなり、娘と義理の息子も日本の大学を卒業しました。今日の私たちがあるのは、日本のおかげです」

日本留学のあと、ハー先生は「生徒たちにも同様の機会と体験をもたらしたい」と決意。ハノイ貿易大学は神戸大学、大阪国際大学などの大学や、キヤノンなどの大手日系企業と連携を実現していった。日本語だけでなく、経済専門知識や、日本のビジネスマナーなどを身につけた生徒たちは、日系企業からの高い信頼を受け、採用されている。

現在、貿易大学を引退したハー先生だが、日本語関連の仕事は続けている。

「2003年から、ベトナム教育訓練省の小学校向け日本語教科書の審査委員長を務めています。ダナンのズイタン(Duy Tân)大学の日本語学部設立に向けたアドバイスなどもしているんですよ」

援助の関係ではなく
日越がパートナーになる日を
ベトナムと日本が外交関係を樹立した1973年から日本語を学び始めたハー先生は、まさにこの50年の関係の目撃者であり証人の一人だ。

「日本で勉強した知識を活かして、ベトナムに帰国してから起業される方は多いですね。私はその人たちを応援したいと思います。昔から、日本はベトナムに政府開発援助(ODA)のプロジェクトを行っていますが、将来的に日本は金銭的な援助ではなく、日本の経験や知識などを活かして、実用的なプロジェクトを推進し、人材交流活動を促進していただきたいと思っています。そのためには、日本人がベトナムで働きやすく生活しやすくなるよう、ベトナム政府が政策を緩和することを願っています」

ベトナム国家大学ホーチミン市人文社会科学大学日本学部歴史文化学科長
グエン・ティエン・ルックさん
Nguyễn Tiến Lực

有効な日越関係をもとに
戦略的パートナーシップの一層の発展を

日越の歴史や日越関係の研究者であるルック教授は、明治維新150周年かつ日越国交樹立45周年において明治維新で活躍した志士10人について記した『維新十傑/Duy Tân Thập Kiệt』(2018年)の著者として知られる。歴史政治学者として日本とベトナムの今とこれからをどう見つめているのか話を聞いた。

1957年クアンビン(Quảng Bình)省生まれ。1983年ハノイ教育大学大学院にて修士課程修了。1992年に国費留学生として広島大学に入学、1999年同大学大学院にて博士号取得(文学)。1999年にベトナムに帰国し、2017年から現職。『明治維新から学ぶこと』(ハノイ市、社会科学出版社、2019年)など著書多数。

福岡アジア文化賞受賞者(ベトナム歴史学会会長)夫妻と(1996年9月)

国費留学生として日本へ
日本研究のために努力奮闘
1984年からクイニョン(Quy Nhơn)大学の歴史政治学科で教鞭を執っていたルック先生は、海外留学を目指していた。

「当時のベトナムでは、外国留学をするには国家試験での合格が条件で、どの国で勉強するかは、個人の希望ではなく教育省(現在教育訓練省)が決めていました。1991年10月頃に私を含む12名が日本政府の国費留学生に決定し、1992年4月に広島大学に入学しました」

渡日前には、まったく日本語を勉強していなかった。当時はハノイ貿易大学を除き、日本語学科はなかったという。

「日本で一から日本語を学ぶことは難しかったですね。私の場合は、『日本研究のために日本語を修得しなければならない』という意識が強く、一生懸命勉強しましたので、あらゆる試験に合格ができました」

日本学科の学生を引率してフエへ研修旅行

日本学の教育と研究で
相互理解に貢献
現在は、ホーチミン市人文社会科学大学日本学部の教授として、仕事上で日本と緊密な繋がりがある。

「大学では日本学の教育と研究の両方を行っています。教育面においては大学院生・学生に日本の歴史や対外政策、日越関係史を指導し、研究面においては明治維新など日本の近現代史と近現代の日越関係史を集中的に考察し、複数の著書を発行しました。

講演のため来校した元英国駐箚特命全権大使の鶴岡公二氏と(2022年11月)

日越国交樹立記念では2003年の30周年から2018年の45周年までの5年ごとに、国際シンポジウムを開催し、東アジア・東南アジアの研究者で日越関係を討論しました。私の活動は、ベトナムの学生から一般市民までが日本国・日本人をより理解する一助となったほか、越日友好関係の促進において少しは貢献できたのではないかと自負しています」

互いの違いから学べる
日本とベトナムの違い
日本での留学生活を通して、日越の共通点だけでなく、多くの相違性にも気づいた。

「まず、日本はいつ行っても清潔な国だと感じますし、ベトナムは街でも田舎でも公共の場でも汚い(笑)。日本では小学校教育から毎日の授業とは別に生徒自身が掃除をする時間があり、公共の場所を自分たちできれいにするという意識があります」

仕事と家族観にも違いがある。

「家族や自分の生活のために一生懸命に働くことは同じです。しかし、日本人は家族より仕事を大切にし、ベトナム人は役職に関係なく仕事より家族が大切。休暇が取れなければ会社を辞める人もいるのは、目の前の利益を追求する習慣からではないかと思います。日本人は物事を遠くまで見通していますね。

よく言われる「時間厳守」の違いも指摘する。

「日本人がとても時間に正確なのは、相手の時間をムダにしたくないからでしょう。ベトナム人も、相手を尊重していないわけではないですが、時間に対してルーズな人が多いようです」

日越のパートーナーシップの
一層の発展に期待
「現在、日本とベトナムの関係は著しく発展し、史上で最も友好的な関係にあります。ベトナムにとって、日本は最大のODAの供与国であり、対ベトナムの第2の投資国、第4位の貿易相手国です。

日越関係史を振り返れば、日本は1992年に先進国の中で最も早くODAを再開し、2011年にはベトナムの WTO市場経済地位を先進国で最初に認め、2016年のG7伊勢志摩サミットのアウトリーチでは主催国日本がベトナムを招待してくれました。これによりベトナムの外交において国際的地位が高まったのです。

日本にとっても、ベトナムはアジアで最も信頼できるパートナーと言えます。 1つ目の理由は、日越両国のリーダー間の信頼関係が非常に厚く、国民にも深い親近感が存在していること。2つ目は、現在のベトナムは政治が安定し、経済成長が飛躍して、近い将来に豊かな国になること。3つ目に、ベトナムは安全保障分野と経済社会問題において日本の最重要パートナーであることです。

2023年の日越国交樹立50周年を機に、両国が「心の温かさ」「誠実さ」「信頼」を通して、アジアにおける平和と繁栄のための広範な戦略的パートナーシップを一層発展させていくことを期待しています」

工学博士、法政大学名誉教授
ダン・ルオン・モー(檀良)さん
Đặng Lương Mô

日本で学び貢献した科学技術を
ベトナムの発展に役立てる

半導体の開発者として世界的に有名なモー工業博士は、日本での40年の暮らしを経て、今はホーチミン市で後進の指導にあたっている。「現場は引退したが隠居はするつもりはない」と言い切るモー先生に、1956年から70年近くにわたる日本とのかかわりについて聞いた。

1936年ハイフォン(Hải Phòng)生まれ。1957年に国費留学生として来日。東京外国語大学留学生別科を経て、1958年東京大学理科一類入学、1968年博士号(工学)取得。1969年東芝に入社、1971年帰国。1976年再び来日し、東芝に再入社して半導体デバイス関係設計やモデリング技術で多数の功績を上げる。1980年に帰化。1983~2002年まで法政大学工学部教授。ベトナム帰国後は、日本との学術交流や研究所の顧問などの活動を通して、技術者の育成に力を注いでいる。
https://todaidenki.jp/?p=4797

見本市船で工業製品を見て
日本の技術の高さを確信
1956年、「日本機械巡航見本市」がサイゴン港に寄港した。日本の機械輸出を促進するため、工業製品をのせた船で各国を巡る企画で、当時工業大学の学生だったモー先生も見学に向かった。

「展示された日本の工業製品を見て、日本人技術者と会話して、この国の科学技術の発展に猛烈な印象を受けました」

高等教育はフランス語で受けるのが当たり前だった当時において、これが日本留学を決意した決め手となった。来日した1957年に日本で科学技術の発展を目の当たりにしたとき、「自分の決断は正しかった」と確信した。

マイクロチップ研究のため
2度の来日、多数の功績
東京大学を1962年に卒業した当時は、ベトナム戦争が激化。やがてアメリカの直接介入が始まり本格的な戦争へと突入した。

「初めから大学院進学を考えていたわけではありませんでしたが、当時の政情や周りからの勧めもあって大学院に進みました。博士号を修めた1968年はちょうど東大紛争のピークにあたり、安田講堂が占拠されてしまったため、博士の学位記を総長から直に手渡される学位授与式がありませんでした」

1969年には東芝に入社するが、正社員ではなく嘱託としてだった。

「当時の日本は、少なくても制度的に、外国人労働者に開放的ではありませんでした。仕事の上での差別がなく、待遇に関しては東芝の厚意的配慮もあったかもしれませんがが、昇進その他の面では、日本人社員と同一視されない。やはりベトナムに帰るしかないと思いました」

1971年にベトナムに戻り、1973年には国立工業大学(現国家大学ホーチミン市校ホーチミン市工業大学)学長に就任するなど順調だったが、戦争の激化は止まるところを知らなかった。

「ベトナムの科学に貢献したい思いはありましたが、適切な機会が見つけられませんでした。一方、日本の科学技術は発展を続けており、マイクロチップの研究を発展させる条件を整えるため、1976年7月に日本に戻りました」

当時は官民共同の国家プロジェクト「超LSI開発研究組合」が始まったときだった。これは、1980年代から1990 年代にかけて日本をマイクロチップ分野で世界のリーダーにした研究開発プログラムだ。1976年9月に、同プロジェクトに参加している東芝に再就職し、多くの功績から一躍有名になった。

ベトナム政府も重視する
マイクロチップの分野
研究開発と専門分野の拡大を求め、東芝を退職した後は法政大学工学部に移り、2002年の定年退職まで在籍。残りの人生をベトナムへの貢献に捧げるため、40年暮らした日本を離れ故郷へと戻った。

「ベトナムは科学技術や健康、教育面が徐々に改善されていました。何にもまして重要なことは、人はどこへ行っても、故郷は家です。私と妻は、人生の最後を故郷のベトナムで過ごしたいと考えました」

帰国してからは法政大学とホーチミン市工業大学の人的交流の協力協定の締結、国家大学ホーチミン市校での集積回路設計教育研究所(ICDREC)設立、ホーチミン市科学大学にマイクロエレクトロニクス専攻の大学院コースを設置するなど活躍。ベトナム政府もマイクロチップ分野の重要性を認識し、多額の投資を行うようになった。

「たとえばホーチミン市ハイテクパークとシノプシス(Synopsys)社は2022年8 月に、集積回路設計の人材育成のための協力協定を締結しました。同社が集積回路設計ソフトウェアの SHTP30 ライセンスを後援し、SHTPチップ設計センターの設立も支援します」

また、同センター内および電気電子学部のある大学では、集積回路設計の教師育成コースを2023年1月6日(金)に開講予定。モー先生はハイテクパークのマイクロチッププログラムの科学評議会に所属しており、このコースの指導と教育にあたる。現在、ベトナムで集積回路設計にかかわる仕事には約2000人が従事する。

日本の技術協力で
さらなるベトナムの発展を
日本とベトナムが科学技術的な協力をさらに行うことを望む。

「私の時代は日本に行く機会が少なかったですが、今はたくさんあります。日本では『量は質に転ずる』といいます。『質』はもちろん重要で、多くの投資が必要ですね。しかし、『量』も大切です。つまり、人が多ければ多いほど、良い人を見つける確率が高くなります。科学技術を学ぶために日本に来るベトナム人が増えれば増えるほど、ベトナムに貢献できる優秀な人材が育つでしょう」

エスハイ(Esuhai)社長
レ・ロン・ソンさん
Lê Long Sơn

互いの将来を考え
日本とベトナムで活躍する人材を育成

日本に行くベトナム人技能実習生やエンジニアが、渡航前に日本語だけでなく文化やマナー、考え方を時間をかけて教えることを徹底している「エスハイ」社。14の校舎をもつスクールには約3000人の生徒が在籍し、日本人教師10人を含む日本語教師130人が教育にあたり、これまで1万6000人の実習生を日本に送り出してきた。自身の留学・就労経験から、日本に興味をもち理解する人材を育てることが、ベトナムと日本双方の発展につながると熱く語る。

ベトナム国家大学ホーチミン市工科大学機械工学部卒業後、1995年来日。2000年東京農工大学大学院機械工学研究科修士課程修了。2001年に人材教育・派遣ビジネス起業。2006年エスハイと日本語学校の「Kaizen吉田スクール」創立、現在に至る。
https://jp.esuhai.vn

JICAの融資を受けて建設したホーチミン市本社

エスハイの社員は総勢380人

2001年起業後、 ドンズー日本語学校を訪問

「機械と言えば日本」と
日本に私費留学
ホーチミン市工科大学3年生だったロン・ソンさんに、日本留学の機会が訪れたのは1991年のことだった。

「ドンズー(Đông Du)日本語学校の創立者のホエ(Hòe)先生が日本から帰国され、開催された日本留学セミナーに参加しました。元々海外に行きたい気持ちが強く、また大学で専攻していた機械工学といえば日本。卒業論文発表の翌日にホエ先生を訪ねました」

社会主義国家に国費留学するのが当たり前の時代に、私費で日本留学できる道が開かれた。開校したてのドンズー日本語学校で1年間学び、渡日に向けて埼玉の日本語学校に入学を申請した。

「ところが却下されてしまって(笑)。ベトナム人の申請は初めてだったようで『前例がない』と。それでも再度申請し、1994年10月に日本行きが実現しました」

日本語学校の生徒は大半が韓国人で、ベトナム人はロン・ソンさん1人のみ。所持金は2000USDのみだったため、朝日新聞の奨学制度を受けて販売所の2階に住み込み、新聞配達をしながら学校に通う生活を3年間送った。

「1日の睡眠時間は4時間でしたね。風邪もひきませんでした。新聞配達は1日でも休んだら迷惑をかけますし、なにより生活ができて、お金に困らず、勉強をやり抜けば大学院にいける。そんな風に気が張っていました」

日本語学校には1年半通い、東京農工大学大学院に研究生として進学。2年目からは文科省の奨学金が支給されたため新聞配達をやめ、勉強に集中できるようになった。

「時間ができて日本を知るうちに、技能実習制度のことを知りました。私は金型製作の仕事がしたく、中小企業で経験を積みたいと思っていたんです」

現場を訪れて知った
技能実習制度の実情
在学中には、ベトナム人技能実習生が働く会社で通訳を務めた。

「実習生は日本語が話せないので、仕事ができないという現状を目の当たりにしました。ただ、当時の日本には380万社ほどの中小企業があるのに対して、ベトナムは70万社。国の発展には中小企業が欠かせないこと、今後は日系企業がベトナムに進出をすることが分かりました」

日本で経験を積み、スキルと日本文化を理解した現場の人材が必要になる。そう考えたロン・ソンさんは修士課程で修了し、技能実習生の監理団体に就職した。

「営業職として、テレアポ、飛び込みなどをしながら関西と関東で機械・電子系の会社を知ることができました」

当時のベトナムではいわゆる「労働輸出」が盛んだった。だが労働者に日本語を教えることはなく、教える人もいなかった。

「語学や文化、マナーを知らないと、外国人労働者が増えれば増えるほどトラブルにつながるんです。実際に営業現場では謝罪ばかりでした。どんな人材を送り出すかが大切だと痛感しました」

2001年起業後、技能実習生を訪問

日本に行く前に大切なのは
語学と文化・マナーの教育
渡航前の教育が必要だと確信したロン・ソンさんは、2001年に起業し、現在の「エスハイ」のベースを立ち上げた。通常、技能実習生はベトナム側の送り出し機関がまず日本企業と候補者の面接を設定し、内定が出たら語学研修などを数ヶ月行う。一方、エスハイでは日本に興味がある人がまず日本語などを学び、その後に行きたい企業を自ら選んで面接を受け渡航するというプロセスを取る。

「『海外で働きたい』だけの実習生は、できるだけ早くいきたいのです。でもそれが結局はトラブルにつながってしまう。弊社では『日本に興味がある』人が前提となっているのが特徴です」

起業1年目は、日本語を学ぶ研修生たちに“早く日本に行ける”と声をかけるブローカーに、半数近くの生徒を引き抜かれた。

「彼らは日本に行ってからが大変ということを知らないんです。おかげさまで弊社の1期生は企業から信頼を得て、翌年からも紹介の依頼をいただくようになりました」

問題は制度ではない
互いを補える関係を
昨今、日本では年々増加するベトナム人技能実習生にまつわる問題が取り沙汰されている。実際、日本の企業から問題の報告もある。そこで毎週、企業からフィードバックを受け、研修内容に反映させることを徹底してきた。

「たとえば女性が作業中に貧血で倒れたことがありました。その理由が、立っての作業に慣れていないためと判明し、2008年からは立って受ける授業を設けています」

2016年には参議院、2018年には衆議院に唯一の外国人の参考人として呼ばれ、技能実習制度の長所・短所について意見を述べたこともある。

「『技能実習制度が悪い』という批判を耳にしますが、悪いのは制度ではありません。たとえば交通ルールがあっても、違反する人はいます。当事者がルールを守っているか、監査機関が機能してその力を発揮しているかが大切です。『安価な労働力』ではなく、人を育てるプログラムが技能実習制度のはずです」

社名「エスハイ」は「2つのSの字」。「S」はベトナムと日本の国の形で「S²」だ。最近はロゴの「²」が、インフィニティ「∞」に変わった。

「二乗は決してマイナスになりません。発展途上で人口が増え続けるベトナムと、技術・文化で秀でていて超高齢化社会を迎えた日本が、お互いの弱みを強みでカバーできる関係をイメージし、その関係がずっと100年以上続くことを願っています。ベトナムの日本語人材が日本とベトナムだけでなく、アセアン全体において日本語で日系企業を支えていく。そんな未来を目指しています」
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