ファンティエットのイカの一夜干
〜偶然生まれたムイネーのダクサン〜
表面を香ばしく焦がした身を裂くと、湯気と同時にイカの香りがプ〜ンと漂ってくる。外はこんがり、中は白い身がふんわり柔らか。食べだすと止まらなくなってしまうこの 「Muc kho mot nang(ムック・コー・モット・ナン)イカの一夜干し」は、ムイネー、ファンティエットを代表するダクサンだ。
これはムイネーのとある海鮮レストランが偶然に作り出したもの。今ではベトナム人観光客で賑わう人気店だが、かつては砂浜にプラスチックのテーブルとイスを並べただけだったと聞いて、驚いた。
「当時は今のようなリゾートホテルはなく、殆どがビールを飲みに来る地元のお客。つまみに出していたのは、あぶったスルメや干し魚ぐらいだったよ。」とその店のオーナーが語る。
「ある日つまみの準備を忘れ、客に『そこに干してあるイカでいいから焼いてくれ』と言われたんだよ」。それは当時お金のなかった彼が、自分が飲む時のつまみ用に干していたもの。「これは料理しても干してもおいしくない種類のイカで、お金を頂くようなものではありません。干したばかりで乾燥していませんし、味の保証はないですよ。」と断ったが、客はとにかく焼いてくれと聞かない。そこで仕方なくそれを焼いてみると、生やスルメを焼いたものとは全く違う独特の風味や食感があり、驚くほどおいしかったという。
この出来事がきっかけとなり、この店ではイカを軽く干して出すようになった。その後、評判を聞きつけた周囲の店や、隣のファンティエットの街でも作られ始めたそうだ。
かつてその原料のイカは、地元では売る価値がないとされていたもの。そんなタダ同然のおつまみの、出来そこないから生まれた偶然の味。そして、その後ムイネー、ファンティエットの街の発展も重なり、いつの間にか高価なダクサンとなった。
もしこの店のオーナーが最初からお金持ちだったら、このダクサンは生まれていなかったかも知れない。そんなことを思いながら、そのエピソードと共に、私は香ばしい肉厚の身を噛み締めた。
文=伊藤忍(ベトナム料理研究家)
1972年生まれ。料理コーディネーターの経験を経て、2000年にベトナムへ移住。人気カフェ「ラフネソレ」のマネージャーとして活躍するかたわら、家庭料理を学び、2003年11月に帰国。現在は日本でベトナム料理教室やベトナム料理店のプロデュース、執筆を中心に活動。2004年12月上旬に食紀行本「ベトナムめしの旅」を情報センター出版局より発売。ハノイ、ホーチミン市でも販売中。
伊藤先生のウェブサイト:Annam Table
(2005年2月14日 月曜日 17:42更新) |