小松みゆきさん
(日本語教師・ライター)
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ベトナムでの介護経験を本に
母娘の暮らし、泣き笑い
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プロフィール
小松みゆき こまつみゆき
日本語教師・ライター。1947年新潟県生まれ。15歳で上京、出版社などで働きながら、高校・短大に学び、法律事務所に就職。1992年、日本語教師としてベトナムへ。2001年、認知症の母親とベトナム暮らしをはじめ、2007年、そのベトナムでの母親の介護の泣き笑いを綴った『越後のBaちゃんベトナムへ行く』を出版。
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「日本語教師派遣の面接で、いきなり『明日、ベトナムに行ってくれますか』と言われ、即座に『ハイ、行きます』と答えたの。度胸を試されたのね」と語る小松みゆきさん。日本での仕事をやめ、海外で日本語教師になる道を選んだ彼女の任地はベトナム。ベトナム反戦運動にかかわった青春時代を思い出し、決めたという。
小松さんがはじめてベトナムを訪れたのは、1992年のこと。当時はまだ飛行機の直行便もなく、周囲にはベトナムを訪れた人などいなかった。またベトナムには「戦争と貧困」というイメージがつきまとい、情報もわずか。ベトナムで日本語教師になるという小松さんを周囲はいぶかった。
しかし片道切符を渡され、不安いっぱいで降り立ったハノイの空港では、文化省の役人と日本語を学ぶ学生たちが大勢で彼女を迎えた。以来、彼女は日本語教師のかたわら、コーディネート業やテレビ出演などで活躍。ようやく自らの居場所を見つけたと、思うようになっていった。
そんな中、2001年、彼女の父親が亡くなった。残された母親は認知症で介護が必要。1度は母を老人ホームに預けたが、足腰は元気なため外出したがり、ホームでは「問題婆」扱いされていた。そこで親1人子1人だった小松さんは周囲の反対を押しきり、ベトナムでの介護を決心した。
「母と同居するようになって生活が一変したの。介護に追われ、時間が自由にならない。母親の骨折や入院、徘徊して行方不明になったりと、次々と事件も起きて。ベトナムに連れてきたのは間違いだったかと後悔し、葛藤する日々が続いたの。この歳まで1人で気ままにやってきたでしょう。だから母親とはいえ、共同生活はたいへん。その上、認知症を理解するまで、すごいストレスだった」。
しかし、母親と暮らすようになって、良い変化もあった。近所のベトナム人たちが小松さんの母親を敬い、2人の生活を支えてくれるようになったのだ。借家の大家が買い物を引き受けてくれたり、隣の家の人が果物を届けてくれたりした。ベトナムの人たちは、言葉が通じなくとも母親に声をかけ、手をひき、話の相手になってくれもした。
「それまで私は、いい年をして女1人で暮らしている得体の知れない外国人だと思われていたのね。でも、母親と一緒に暮らすようになって、ようやくご近所の人に受け入れてもらえたと感じられるようになって、ベトナムで生活するのが楽になったの」。
介護のストレスも、一見不可解に見える母親の行動を理解する過程と、外国人が異文化を理解し、受け入れていく過程とが似通っていると気付き、母の症状を異文化として受け入れることで乗り越えた。
そして今年。ベトナムでの母親の介護5年を記念して、卒業文集を作る気持ちで介護生活のエピソードを綴った『越後のBa(バー)ちゃんベトナムへ行く』を出版、ひとつの区切りをつけた。
「母が生きている間は、ベトナムで暮らすと決めているの。ベトナムには、おばあちゃんにあたたかく声をかけて、やさしくしてくれる人たちがいるから」。
(2007年10月号 | 2007年10月11日 木曜日 10:44 JST更新) |