例えば、卵や鶏肉が贅沢品じゃなくなったのは、品種改良した鶏を短期間で太らせて大量飼育するアメリカ式のブロイラー養鶏が一般的になった30年と少し前のことで、それまでは農家の人が半年くらいかけて鶏を庭先で太らせて、ぽこっと産んであった卵を拾って食べるのが普通でした。牛肉もまた然りで、もともと畑で働かせることが目的で飼っていた牛を、食べるためだけに育てるコストや労力は大変なものだったことが容易に想像できます。
ビバ技術革新!と手放しに喜びたいところなのですが、盆暮れ正月にしか食べられなかった御馳走が、お金さえ出せばゲップが出るまで食べられるようになった今の世の中は明らかに生産過剰のカロリーオーバーで、飢えを満たすための食品と言うよりは、消費をあおるための経済ツールになってしまった感があります。自然な状態で育成していては決して有り得ないような短期間に、虫も食わないような殺菌力を保ったまま、不健康なまでの脂肪分や糖度をこってりと含んだ肉や野菜。さらには添加物や甘味料を許容度ぎりぎりまでブチこんだ加工食品。人知では計り知れない何らかの歪(ひず)みが生じるのも、決しておかしなことではないと、私自身は考えています。
この厳しい現状において生産・販売者に必要なのは、自分の子供にも胸を張って食べさせられる食品を作る責任感と努力。消費者に必要なのは、値段と必要に応じて食品を使い分けていく厳しくも温かい目ではないでしょうか。
「食べる」と言う行為には、人間としての文化的な部分と、生物としての根源的な部分があります。モノが無く、危機意識のある今だからこそ、漫然とした飽食ではなく一口一口が心身に染み渡るような食事を味わえるチャンスです。限られた材料を生かして、新しい我が家の定番メニューを開発して、私にもこっそりと教えてくださいね(ほんとにお願いします)。
【今月のまとめ】
病気の境涯に処しては、病気を楽しむと言うことにならなければ、
生きていても何の面白みも無い BY 正岡子規