警備会社副社長
おれはハノイ出身。高校を卒業して、最初に見つけた仕事は、サイゴン港の警備員さ。1年くらいやって、次は船乗りになった。貨物船に乗って、シンガポールやインドネシア、台湾などに出かけたものさ。1年ほど、日本の漁船に出向してたこともあるよ。「ヒカリ丸」って船で、船長以下ほとんどが日本人だったけど、ベトナム人も10人くらい乗り込んでた。漁船団の母船でね、毎日周りの船が獲ってくる魚を積み込むのが仕事さ。
その時の給料は月に300ドル。当時としちゃ、かなりよかったね。でもそれは1年だけで、あとはほとんど無給みたいなものだった。それでもみんな仕事を辞めないのは、外国で買った物をベトナムで売ることができたから。各自に割り当られる数は決まってたけど、あのころは石鹸からバイクまで、ベトナムにはなんにもなかったからね、なんでもよく売れたんだ。
結構いい稼ぎになったんだけど、そのうち市場に物が出回りだして、あんまりいい商売じゃなくなってさ。それで船員をやめてフランスの石油調査会社に入ったんだ。船員をやっているときに勉強していた英語が役に立ったね。その会社では、駐在員事務所で総務の仕事をしていたんだ。夜は英語の学校に行って、さらに英語を勉強したよ。でも結局そこは3年でやめて、次は自分で引っ越し請負会社を作った。そのころベトナムにはそんなサービスがなかったから、会社は順調に大きくなった。
そうこうしているうちに、95年に父がサイゴンで警備会社を作ってね、おれも投資したのさ。その後は2つの会社で仕事をしてたんだけど、だんだん忙しくなってきて両方は無理になっちゃってさ。それで99年に引っ越し会社を売って、警備会社1本に打ち込むことにしたんだ。今は主にマーケティングやセールス、社員教育などを担当してる。全国で2500人以上の警備員がいるからね、管理するのも大変なんだよ。なにしろ警備員だからね、信用が第一。その辺を面接や教育期間中に見極めなきゃならない。それでも時には問題も起きるものさ。
例えば、夜間の居眠り。警備員がちょっと寝てる間に泥棒に入られたこともあるよ。もちろんそいつはすぐにクビだし、盗まれたモノは全額弁償さ。いまは社員管理のシステムを強化したり、罰金や減俸などいろんなシステムをうまく組み合わせて対応してるけどね。それだけじゃあダメだ。だから、今後はアメリカや日本のシステムを学んだり、設備を導入したりして、サービスの向上を計らなきゃならないと思ってるんだ。
文・構成=笹原亮(ジャアク商会・Cafe Siesta)
(2005年10月7日 金曜日 9:16JST更新) |